92年大会、初のアジア王者へ 2000年大会は最強の王者に!
2011年のカタール大会では激戦を制し、4度目の優勝を遂げた photo/Getty Images
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日本代表が初めてアジアカップに出場したのは、1988年の第9回大会である。ただ、五輪のプライオリティが最上位だった当時の日本サッカーでは、重要度の低い大会だった。チームの編成も大学生を中心とした“B代表”だった。5ヵ国によるグループリーグでは1分3敗に終わり、1点も奪えずに大会を去っている。
4年後の92年に行なわれた第10回大会は、広島で開催された。ホームの日本は同年春に史上初の外国人監督としてハンス・オフトが就任し、ダイナスティカップで優勝するなどの成果をあげていた。94年のアメリカW杯出場への通過点として、上位進出を目標に掲げた。
UAEとの初戦、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との第2戦に引き分けた日本は、イランとの第3戦に挑む。0対0で迎えた後半終了間際、ペナルティエリア右でフリーになったカズこと三浦知良が、至近距離から豪快に決めてリードを奪う。「魂込めました、足に」という名言が生まれた一撃は1対0の勝利を呼び込み、日本はUAEに次ぐグループ2位で準決勝へ進出する。
中国とのスリリングな撃ち合いを3対2で制した日本は、決勝でサウジアラビアと対峙した。3連覇を狙ってきた中東の強豪は、高木琢也の左足ボレーで沈めた。1対0で勝利した日本は、史上初めてアジアの頂点に立った。
UAEを舞台とした96年大会は、ベスト8に終わった。グループリーグはシリア、ウズベキスタン、中国に3連勝したが、準々決勝でクウェートに0対2で屈した。
2000年大会では「歴代最高の王者」が生まれる。フィリップ・トルシエ率いる日本だ。セリエAのローマに在籍する中田英寿を欠いたものの、名波浩がコンダクターとして攻撃を操り、グループリーグ初戦から爆発的な強さを発揮していく。組織化された3−5−2で戦う日本は、大会最多の21ゴールを叩き出した。そのなかでも、準々決勝のイラク戦の同点弾は鮮烈だ。
ペナルティエリア右外からの直接FKを、中村俊輔がゴール前ではなくほぼ真横へフィードする。これを名波が左足ボレーで突き刺したのだ。望月重良がゴールスコアラーとなったファイナルの決勝点も、リスタートを練り上げた日本らしい得点だった。
サウジアラビアと対峙したそのファイナルでは、GK川口能活が輝いた。完全敵地の空気感のなかでビッグセーブを連発し、1対0の勝利を引き寄せたのだ。
歴史に刻まれる超セーブや劇的ボレーシュート
アジアカップ史上最高に美しいゴールと言っても過言ではない李忠成のボレーシュート photo/Getty Images
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川口は04年大会でも大きな仕事をやってのけた。
ハイライトはヨルダンとの準々決勝だ。1対1のまま延長へもつれた試合は、PK戦に突入する。1人目の中村、2人目の三都主アレサンドロが失敗し、先攻の日本が4人目を終えてPK戦は2対3となる。決められたら敗戦となる窮地で、川口はヨルダンの4人目のシュートを左手1本で弾き出す。これで一気に流れが変わった。川口のセーブと相手のミスでヨルダンは4人連続の失敗となり、日本はPK戦を4対3で制した。
準決勝のバーレーン戦も激闘だった。0対1で追いかける前半に遠藤保仁が退場となり、日本は数的不利に立たされる。それでも中田浩二と玉田圭司の得点で逆転するが、バーレーンに3対2と引っ繰り返されてしまう。
しかし90分、中澤佑二のダイビングヘッドで同点に追いつく。延長前半には玉田が単独で抜け出し、4対3の勝利につながるゴールを決めた。ジーコ率いる日本は決勝でも開催国の中国を下し、大会連覇を果たしたのだった。
東南アジアの4か国で共催された07年大会では、オーストラリアとの準々決勝が壮絶なサバイバルとなる。
アロイージと高原直泰の両ストライカーが1点ずつをあげた試合は、PK戦に決着が委ねられる。ここでまた、川口が輝く。相手の1人目と2人目を連続してストップし、4対3での勝利をもたらしたのだった。
準決勝ではサウジアラビアに2対3で競り負け、3位決定戦では韓国にPK負けを喫した日本は、ベスト4で大会を終えた。それでも、06年のドイツW杯の主力とイビチャ・オシム監督に登用された中堅がミックスされたチームは、国際舞台で可能性を示したと言えるだろう。
アルベルト・ザッケローニのもとで戦った11年大会は、スリリングなゲームの連続だった。
開催国カタールとの準々決勝は、ウルグアイから帰化したセバスティアンに先制される。日本は前半のうちに香川真司の得点で追いつくが、CB吉田麻也が61分に2度目の警告で退場となってしまう。直後の直接FKを決められてビハインドを背負うものの、香川の同点弾でスコアをタイに戻す。さらに90分、香川の仕掛けから伊野波雅彦が蹴り込み、3対2でカタールを振り切った。
準決勝の韓国戦は、2対2のままPK戦へもつれる。川島永嗣が2度のPKストップで優位に立ち、PK戦を3対0で制した。
オーストラリアとのファイナルも壮絶だった。両チームともに一歩も譲らない攻防はスコアレスのまま延長戦へ突入し、迎えた延長後半109分だった。左サイドを長友佑都が突破し、ゴール前へクロスを供給する。フリーで待ち構えた李忠成が、得意の左足ボレーでゴールネットを揺らしたのだった。
2度目の大会連覇を目指した15年大会は、ベスト8で姿を消した。UAEとの準々決勝は、前半早々の失点が日本に重くのしかかる。守備を固める相手に本田圭佑、岡崎慎司、香川らがシュートを浴びせるが、ゴールをこじ開けられない。後半から登場した武藤嘉紀や豊田陽平も狙うが、スコアは0のままだ。
閉塞感を打ち破ったのは、途中出場の柴崎岳だった。本田とのパス交換から右足を一閃し、ゴール左スミを射止めた。
しかし、2点目を奪うことはできない。1対1で迎えたPK戦でも1人目の本田、6人目の香川がワクを外し、4対5で敗れたのだった。
アジアカップ出場8回で4度の優勝は、サウジアラビア、イラン、韓国らのライバルを抑えて史上最多だ。森保一監督のもとで戦う来年1月開幕の第17回大会も、2大会ぶりのアジア制覇が日本のターゲットだ。
文/戸塚 啓
theWORLD228号 2018年12月15日配信の記事より転載
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