[特集/平成の日本代表史 02]“史上最強”と称された平成11年〜平成18年

ワールドユースで準優勝  高まった“79年組”への期待

2002年6月9日。日韓W杯GL第2節のロシア戦。上列左から楢﨑正剛、戸田和幸、鈴木隆行、 柳沢敦、松田直樹、中田浩二、中田英寿、小野伸二、稲本潤一、明神智和、宮本恒靖 photo/Getty Images

 フランスW杯3連敗。初めてW杯に出場した日本代表の活躍に期待し日本中が沸き立ったが、その結果は無残なものだった。世界のサッカー大国の中にあって日本はまだ雛鳥みたいなもの。そのことに選手はもちろん、メディアやサポーターも初めて気が付いた。

 これからどのように成長し、強くなっていくべきか。日本サッカー界が腕を組み考える中、突然表舞台に飛び出し、キラ星の如く輝き始めたのが79年組の選手たちだった。小野伸二、遠藤保仁(80年1月生まれ)、稲本潤一、高原直泰、中田浩二、小笠原満男らである。

 彼らは1993年のJリーグ開幕当時、中学生だった。皆プロという目標を持ち、日本サッカー界も若手の育成に取り組んだ。その最大の成果が小野たちだった。彼らの世代は個性豊かで非常に技術が高く、U-17世界選手権エクアドル大会に出場するなど、海外での経験も豊富だった。小野たちはフィリップ・トルシエ監督の下で1999年ワールドユースのナイジェリア大会に出場し、準優勝に輝いている。FIFAの公式世界大会で初めて結果を出し、後に彼らの多くが海を渡り日本代表として活躍した。平成中期の日本サッカー界に多大な貢献したことから彼らは“黄金世代”と呼ばれるようになった。黄金世代の誕生と準優勝という結果は日本サッカー界に勢いをもたらし、アジアの国々は日本に警戒感を強めた。とりわけライバル国の韓国は日本の若い世代の台頭に危機感を露わにしている。

 ナイジェリア大会の後、シドニー五輪でメダルを獲得すべく黄金世代とその一つ前の宮本恒靖、中村俊輔たちの世代が融合し、シドニー五輪代表が編成された。そのチームの象徴となったのが、中田英寿だった。1998年フランスW杯ではエースとして出場し、その後セリエAのペルージャに移籍。ユヴェントス戦 で鮮烈なデビューを飾り、彼はイタリアはもちろん世界に注目される選手になった。そんな選手がシドニー五輪代表に合流したのだ。彼が合流した当初、稲本たちはその存在感のすごさに圧倒され話もできず、ただ遠巻きに見ていたという。中田英を軸にして戦ったシドニー五輪はベスト8で終わった。

アジア王者として君臨も痛感した強豪国との差

2000年10月29日。アジア杯決勝でサウジアラビアを撃破。7 9 年組とDF森岡隆三らの中堅が融合した好チームだった photo/Getty Images

 日本がアジアで抜きん出た存在であることを証明したのが、2000年のアジアカップだ。名波浩らA代表の選手と中村、稲本らシドニー五輪組が混じったチームは、グループリーグから1試合も失うことなく圧倒的な力の差を見せつけて優勝し、アジアチャンピオンに輝いた。この時トルシエが作ったチームは、ひとつのピークを迎えたと言える。

 最強のアジア王者として世界に挑む。その力を証明するために2001年パリへ乗り込み、親善試合のフランス戦に挑んだ。だが雨の中、日本はジネディーヌ・ジダンらを相手に何もできず0-5の大敗。唯一の光明は中田英だった。田んぼのようなピッチの中、日本の選手で彼だけがボールをコントロールし戦っていたのだ。

 2002年日韓W杯はその中田と若い黄金世代が中心になったチームだった。国内がW杯に沸き、国民の応援に後押しされ、日本代表の活躍の機運は高まった。グループリーグ初戦のベルギー戦に引き分けW杯史上初めて勝ち点を獲得すると、つづくロシア戦は稲本のゴールでW杯初勝利。第3戦でチュニジアも撃破し、日本国内は熱病にうなされたようにヒートアップした。しかしベスト16でトルコに敗れ、日本の挑戦は終わった。フランスW杯以降日本は急成長したが、ベスト16以上の質の高いチームにはまだ届かなかった。ただ小野や稲本らはまだ若く、次のドイツW杯は26歳前後と一番動ける年齢で迎えられる。この悔しさを晴らすのは、ドイツW杯であるとみなが期待した。それに応えるようにジーコが監督に就任した。

史上最強との呼び声も、足りなかった一体感

2006年6月12日。ドイツW杯のGL初戦で豪州と激突。前半26分、“ニッポンの10番”中村俊輔が先制点を奪う

 日本をよく知る指揮官は、最初の試合で中田英、中村、小野、稲本という黄金の中盤を編成し、ファンの心をわし掴みにした。この時代、中村や小野ら黄金世代の選手の多くが海外でプレイしていた。中田英が欧州への扉を押し開き、海外のクラブは将来性のある優秀な日本若手の獲得に動いたのだ。中田英を始め小野や稲本らの活躍が、その後の日本人の海外移籍への道を作ったといっても過言ではないだろう。

 日本代表も海外組が中心となり、その結果トルシエ時代にはなかった問題が生じた。ジーコは海外組を偏重し、国内組の調子がいくら良くても試合になると海外組を出場させた。それはどこの国でも普通にあることなのだが、日本では初めてのことゆえジーコが確立したヒエラルキーに抵抗を示す選手が多かった。また海外組が増えたので代表の編成にも苦慮した。

 2004年アジアカップは中村と川口以外に海外組の選手を招集できず、国内組中心で戦った。中国で反日感情が高まる中、日本は苦しい試合を勝ち抜き、アジアカップ連覇を達成した。宮本は「このチームの一体感はすごかった」と語ったが、ジーコはW杯は別ものとして考え、これまで通り海外組を重宝した。

 2006年ドイツW杯を戦う代表メンバーには中田英を始め、中村、宮本、また小野ら黄金世代の選手が8名も入った。“史上最強の日本代表”と称されファンはもちろん、選手たちも日韓W杯のベスト16を越え、ベスト8も狙えるのではないかと期待した。このチームがワールドユースのナイジェリア大会の時のように一体感を高めることができれば、そういう夢が見られたのかもしれない。

 しかし、初戦のオーストラリア戦に逆転負けすると、チームは目標を見失い、ジーコはチームをコントロールする術を失った。日本は1勝もできずにドイツを去ったのである。

 中田英はこの大会を最後に引退し、期待された中村を始め黄金世代は誰ひとり輝けなかった。それは、“史上最強”と称されて浮かれ、自分のエゴを剥きだしにしたがゆえの結末だった。日本は、短期決戦で一番大事な“チームのために”という意識を欠いていたのだ。だがこの教訓が4年後、南アフリカで活かされることになる。


文/佐藤俊

theWORLD(ザ・ワールド)2019年5月号『平成の日本代表クロニクル』特集より転載

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