[特集/欧州サムライ伝説 02]天才・小野伸二が欧州で結果を残せたワケ

19歳で意識の変化 世界挑戦を視野に

19歳で意識の変化 世界挑戦を視野に

UEFA杯を制し、ファン・ペルシーと喜びを分かち合う小野 photo/Getty Images

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 日本の至宝と言われた小野伸二がオランダの名門フェイエノールトへの移籍を決めたのは、2001年の夏だった。

 小野は、98年に浦和レッズに入団し、そのシーズンに日本が初出場したフランスW杯のメンバーに選ばれ、ジャマイカ戦では途中出場を果たした。翌99年、ナイジェリアワールドユースではキャプテンとしてチームを引っ張り、準優勝に輝いた。稲本潤一、高原直泰ら「黄金世代」としてトルシエ監督の信頼を得て、02年日韓W杯を迎える日本代表において中心的存在のひとりになっていた。

 ナイジェリアで世界と互角以上に戦ってから小野の意識が変わった。「スペインを始め、まだ世界にはうまい選手がたくさんいる。自分がさらに成長するには、そういう環境でプレイすることが大事だと思う」
 19歳で、世界への挑戦を視野に入れていたのだ。

 現在では、その年齢では当たり前の思考になっているが、当時は海外移籍が容易なことではなかった。海外で結果を残していたのは中田英寿だけ。日本は、フランス大会で初めてW杯に出場し、世界における日本のサッカー、そして日本人選手の評価はまだそれほど高くはなかったのだ。

 そんな世界環境と時代背景の中、小野は01-02シーズンの開幕前に海を渡った。

 唐突に移籍が決まったようだが、実は1月、小野はフェイエノールトの冬のトレーニングキャンプに参加していた。その時は、オランダの空がどんより暗くて寒く、環境的にあまり気乗りしなかったという。ただ、海外のクラブの練習を経験して気づいたこともあった。海外の選手は自己アピールが強く、「俺が、俺が」が当たり前でプレイに威圧感がある。日本で海外の選手と対戦すると、圧倒される場合があるが、海外ではそれが日常的なので圧を感じなくなる。そうなれば、どんな相手に対しても普通にプレイできる。メンタル的に得られるものの大きさを小野は感じ取り、半年後、移籍を決めたのである。

1年目から結果を残したフェイエノールト時代

1年目から結果を残したフェイエノールト時代

世界最高峰の舞台であるCLに通算9試合出場。01-02シーズンにはバイエルンと対戦している photo/Getty Images

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 フェイエノールトのファンへのお披露目はド派手な演出で飾られた。

 ヘリコプターがスタジアムに到着し、14番を背負う小野が登場したのだ。割れんばかりの大歓声で小野に対するファンの期待度の高さがうかがえた。

 小野は、チームに馴染むために時間をかけた。

 移籍してきた海外の選手は監督やチームメイトに猛烈な自己アピールをする。海外では主張し、自分を強く売り出し、結果を出さないと生きていけないからだ。ただ、サッカー選手は、練習時のボールの扱いや紅白戦で対峙すればだいたい相手の力量が分かるもの。小野はあえてアピールすることなく、練習等で自分の高い技術を徐々に披露していった。また、人間性においても小野は、どかどかと出しゃばるのではなく、和を尊ぶタイプ。性格的にも明るく開放的だ。技術、人間性、マインドと揃った小野は、チーム内でプレイヤーとして、人としての信頼を得るのにそう時間はかからなかった。

 ただ、そういう選手だからといって、すぐに試合に出られるわけではない。小野は、試合に出ることについても焦らなかった。

「日本だと早く試合に出ないとヤバいって言われるけど、こっちでは早く結果を求めていない。ゆっくり成長していくようにって感じだった。僕もゆっくりやりたいなと思っていたので、それは自分にとってすごくいい環境だった。最初にあまり自分を見せていないのは、チームのやり方がまだ見えていないから。だから、アピールするとかも特に意識しない。やっていけば監督や選手は感じるものがあるはずだから」

 小野がプレイする上で、もうひとつ大事にしていたのがコミュニケーションだった。

 海外にはこの後も多くの選手が飛び出していったが、志半ばで帰国を余儀なくされるケースが多い。それはサッカーのレベルというよりも、コミュニケーション能力の低さが自分の評価を下げてしまう一因になっていたからだ。小野は、浦和時代から英語を学び、オランダでは家庭教師をつけてオランダ語を学んだ。明るい性格なので、どんどん積極的に選手に話しかけ、練習後はみんなと一緒に食事に出かけた。ファン・ホーイドンクやカルー、トマソン、ファン・ペルシーらとコミュニケーションを取りながらチームに溶け込んだ。1年目の終わりには選手と普通にオランダ語で話をしていたので、その語学力の高さに本当に驚かされた。

 こうしてチームに徐々に慣れていく中、小野はファン・マルバイク監督の信頼を得て、試合に出るようになった。最初は[4-3-3]で、中盤の3枚に置かれて役割が分からず戸惑ったが、監督に「パスで崩せ」と言われて自分だけの役割を理解した。[4-4-2]ではボランチでプレイすることが多かったが、ゲームメイクで力を発揮し、1年目はリーグ戦30試合出場3得点という結果を残した。

 また、2002年のUEFAカップ決勝では、ボルシア・ドルトムントと対戦。フェイエノールトの本拠地ロッテルダムの「デ・カイプ」で行われる中、小野はボランチでスタメン出場し、3-2で勝って優勝した。「一番」の鉢巻きを巻いてグラウンドを一周する小野が「優勝したことが今までなかったので、特別な気分になった」と誇らし気な笑顔を見せたのが印象的だった。UEFAカップ優勝はプロ入り後、自身初のメジャータイトルとなり、日本人選手として初めて欧州カップ戦での優勝を達成することになった。

「欧州での1年は良くやってこれたなという感じ。いいこともあり、悪いこともあった。でも、早くにレギュラーになってタイトルの掛かった試合に出て、優勝できた。激動の1年だったけど、これで終わりじゃない。まだまだ成長したいですね」

 この約1カ月後、小野は日本代表として日韓W杯を戦い、ベスト16入りに貢献、2002年度のアジア年間最優秀選手賞を受賞し、充実のシーズンを送る。2006年1月に浦和レッズに復帰するまで、フェイエノールトでは5シーズンにわたって活躍した。

小野だから実現した2度目の海外挑戦

小野だから実現した2度目の海外挑戦

自身2度目の海外挑戦で、ドイツのボーフムを選択した小野 photo/Getty Images

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 2008年1月、小野はブンデスリーガのVfLボーフムに移籍した。「もう1度、海外でサッカーをやりたい強い気持ちがあったので、それが実現できてうれしい。たぶんこれが海外でやる最後のチャンスになると思う」

 小野は、覚悟を決めてドイツにやってきた。

 その前年は左足の怪我で半年ほどサッカーが出来なかった。治療しても痛む足、戻らない自分の感覚に苛立ち、苦しい時間を過ごしてきた。日本で四六時中注目されるのではなく、初めてオランダに行った時のように自分の間合いで、静かにサッカーに取り組める環境が小野には必要だったのだ。

 だが、デビュー戦となったブレーメン戦で小野は、2アシストを決めて2部落ちの危機を阻止する「救世主」として注目を浴びる。実は、小野は自身のデビュー戦に滅法強い。フェイエノールトでも開始10分でアシストしていたのだ。

 小野は、上々のスタートを切った。チームでは中堅として期待され、途中からのシーズンだったが12試合に出場し、残留を果たした。だが、翌シーズンは故障がつづき、8試合の出場に終わり、2010年01月に清水エスパルスに移籍した。

 ドイツでの挑戦は、小野だからできたことのように思える。海外でプレイしていた選手が日本に戻り、また海外に出ていくのは最初に行くよりもはるかに難しい。海外でプレイしていれば代理人やクラブ関係者の目に留まるチャンスが多いが、日本にいるとそのチャンスが激減するからだ。それゆえ過去に実績があり、助っ人として活躍できる保証がない限り、移籍のハードルは高くなる。小野は、それを越えて2度目の海外移籍を実現した。それだけでも小野の選手としての評価がどれほどのもであったかが理解できる。

 小野は、中田英寿らとともに海外移籍の先駆けとなり、結果を残すことで世界における自身と日本人選手の評価を高めた。今の日本人選手の海外移籍の道筋を作り上げたパイオニアのひとりになったのである。

文/佐藤 俊

※電子マガジンtheWORLD245号、5月15日配信の記事より転載

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