欧州初挑戦は孤独との戦い イタリアで見せた成長
新シーズン用のユニフォーム発表会(2007年4月27日)にて。中村俊輔は、プレイでも人気でもセルティックを牽引した photo/KK
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日韓W杯出場が叶わなかった中村だったが、2002年夏にイタリア・セリエAのレッジーナへと移籍を果たす。南イタリアの地方都市をホームタウンにするクラブは、1部と2部とを行き来していた(現在は3部)。当時のイタリアでは、中田英寿の活躍が注目を集めており、中村は「第2の中田英寿」とも呼ばれた。イタリア人は日本人選手の獲得を「日本人にユニフォームを売るため」と揶揄することがある。日本へ放送権が売れ、クラブに収入をもたらす役割だと。厳しい眼が集まるぶん、それに値する活躍をしなければならない。
レッジーナでは、レギュラーから遠ざかる時期もあった。なかなか勝利できず、残留争いを続けるチーム。指揮官の交代も相次ぐなか、「自分がなにをすべきか」をずっと追い続けた。どうすれば試合に出られるのか? 結果を残せるのか? 監督の信頼を得るためには、指示通りの仕事をしていればOKというわけではない。指揮官の想像を上回る「何か」を示さなければ、外国人選手としての立場は保てない。周囲を観察し、思考し、努力の方向性を見出す。中村が秘めた武器が磨かれた。
インターネットは未発達で、スマートフォンもない時代、海外でプレイする日本人選手の孤独は、今とはまったく違うだろう。
「差し入れでもらう日本の雑誌がうれしかったですね。全部読んでしまうと終わるので、『今日はここまで、次の試合が終わったら続きを読もう』とか、あの頃は自分へのご褒美だった」と中村は振り返って笑う。
2シーズン目の2003-04シーズンは、試合出場機会が文字通り半減している。それでもシーズン終了後のアジアカップでは大会2連覇に貢献し、最優秀選手賞を受賞。中村俊輔がイタリアで力をつけていることを示してくれた。続くシーズンは中心選手として、当時のクラブ歴代最高位セリエA13位へとチームを引き上げている。
主役となったセルティック時代 華麗なプレイが観客を魅了
“ナカムラ”の名を世界に轟かせた2006-07シーズンのCL・マンU戦。この試合で今も語り継がれる伝説のFKが生まれた photo/Getty Images
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2005年夏に移籍したセルティックは、スコットランドリーグの2強クラブのひとつだ。地方クラブのレッジーナとは、クラブの規模もスタジアムの規模も桁違い。そして、その国(リーグ)の強豪クラブに所属することの意味を中村は示してくれた。欧州のコンペティションへ出場できることの意味は大きい。
「SWEET16」
2006年11月22日。グラスゴーのニューススタンドに並んだある新聞の見出し。ベスト16という意味だ。その前夜セルティックパークでの欧州チャンピオンズリーグ、マンチェスター・ユナイテッド戦に1-0と勝利し、セルティックは決勝トーナメント進出を決めている。そして、それをもぎ取ったのが、中村俊輔のFKによるゴールだった。中村はアウェイでのマンU戦でも直接FKを叩き込んでおり、まさにラウンド16進出の立役者だったわけだ。
FKは中村の代名詞だったが、彼はその他のプレイでも観客を魅了した。視野の広いパスセンス、決定機を見逃さないシュート能力、そしてキレとテクニックで相手を翻弄するドリブル……。中村の一挙手一投足に、目の肥えたスコットランドのファンは歓喜し、声援を送った。
中村がセルティックのレジェンドと呼ばれる理由に先述のマンU戦でのプレイを挙げる声は多い。在籍した4シーズンで国内リーグ連覇も果たしている。しかし、当時のセルティックではそのほかにも、様々な中村効果が生まれていた。
欧州ではチーム練習後の個人練習を嫌う指揮官は少なくない。コンディションをコントロールする意図がそこにある。けれど、セルティックのゴードン・ストラカン監督は、中村には自主練習を許可している。小柄なパサーとしてスコットランド代表やマンチェスター・ユナイテッドでも活躍した指揮官は、中村を高く評価していた。自主練習をする中村の姿に若い選手たちは刺激を受けた。結果を残すうえでその時間がいかに重要かを中村自身が実践していたからだ。
欧州で認められたレフティーは今なお語り継がれるレジェンドに
セルティックでは6つのタイトルを獲得 photo/Getty Images
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レッジーナでもセルティックでも、中村はゲームメイカー、パサーとしてのプレイでチームに欠かせない存在感を示してきた。セルティックに在籍した4年間で、獲得したタイトルは実に6つ。そのほかにも、欧州チャンピオンズリーグ初ゴール、初の決勝トーナメント進出をはじめ、国内リーグ連覇や現役選手が選ぶスコットランドリーグMVPを受賞するなど、数々の偉業や個人タイトル獲得を成し遂げ、それまで日本人が到達し得なかった高みに上り詰めたのだ。
中村は2009年6月に、華々しい戦果を残したセルティックを後にし、スペインのエスパニョールへ移籍する。しかし、中盤を省略するような戦い方は中村のスタイルには合わず、結局スペインでの挑戦は、2010年2月に横浜F・マリノスへの移籍で終了する。しかし、日本の天才レフティーは世界の舞台で確かな足跡を残した。帰国から10年が経った今でも、彼が日本で活躍すれば欧州メディアはそのプレイを取り上げる。「歴代最高のFKはどれか」が話題になれば、必ずと言っていいほどマンU戦で決めたビューティフルショットが挙げられる。アーセナルのキーラン・ティアニーのように、中村への憧れを隠さない現役選手もいる。グラスゴーの地に刻まれた、いまだ色褪せることのないファンタジスタの記憶。世界中のサッカーファンは今もなお、中村俊輔という天才の虜だ。
文/寺野 典子
※電子マガジンtheWORLD245号、5月15日配信の記事より転載
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