高原直泰はボカ・ジュニアーズ(01)へのローンにはじまり、ハンブルガーSV(02-06)、フランクフルト(06-08)でプレイ。欧州時代は国こそ違ったが、小野伸二や稲本潤一といった“旧友”たちと同時期にプレイし、コンスタントに得点もしていた。
ハンブルガー時代の04-05シーズンにはチーム内のFW最多の7得点をあげ、地位を確立した。フランクフルトに移籍した06-07シーズンには第15節アーヘン戦でブンデスリーガにおける日本人選手初のハットトリックを達成。その後も好調を維持し、下位に低迷するチームのなかでハツラツとした動きをみせ、海外リーグで自身初の二桁となる11得点している。
継続して海外でプレイする選手が出てきた背景には、分母の増加が関係していた。多くの選手が海を渡れば、それだけ息の長い選手が多くなってくるものだ。
02-03シーズンの途中には戸田和幸がトッテナムに加入し、プレミアリーグ4試合に出場し、翌シーズンにオランダのデン・ハーグへ。 03-04シーズンには冬の移籍も含めて柳沢敦(サンプドリア)、藤田俊哉(ユトレヒト)などが新天地へ。柳沢は15試合に出場したが、そのうち13試合が途中出場で結果を残すには厳しく、無得点に終わった(翌年メッシーナに移籍)。一方、藤田はシーズン途中の加入にも関わらずチームに馴染み、14試合1得点という結果を残した。しかし、ローン元の磐田、ローン先のユトレヒトのチーム事情から完全移籍には至らなかった。
この時代、どちらかといえば稲本や高原のように複数の移籍を経て長くプレイする選手よりも、1年~3年で帰国する選手が多かった。そうした選手が増えるなか、継続して活躍する選手が出てくるようになったのである。
若いうちに行くか、Jリーグで十分な実績を積んでから行くか。ここにも、大きな違いがある。たとえば、名波は即戦力として期待されていたが、稲本はポテンシャルが評価されていて、将来性を買われていた。そういった意味で、年齢に関わらずすぐに結果を出さなければならない状況で移籍すると、プレッシャーが大きいといえる。
そうしたなか結果を残したのが、04-05シーズンにマジョルカに移籍した大久保嘉人である。Jリーグで活躍し、04年アテネ五輪でもU-23代表の一員としてプレイ。マジョルカには冬の移籍で加入したが、チームはこの時点で降格争いに絡んでいた。間違いなく、大久保は即戦力として期待されていた。
チームが低迷するなか、第18節デポルティボ戦でデビューすると、1得点1アシストで2-2のドローに貢献。この一戦でケガをしたためしばらく出場できなかったが、終盤を迎えて連続ゴールするなど13試合出場(先発7試合)で3得点し、1部残留に貢献している。
ところが、難しいのは継続して活躍することで、この大久保も翌シーズンは監督交代などもあってサブにまわることが多く、自身が納得するプレイができず。ローン期間を延長することなく、1年半で帰国している(後にふたたび欧州へ移籍)。
中田浩二(マルセイユ→バーゼル)、大黒将志(グルノーブル→トリノ)、小笠原満男(メッシーナ)、宮本恒靖(レッドブル)、三都主アレサンドロ(レッドブル)などは、Jリーグや日本代表で経験を積み、海外移籍した選手たちである。
対して、森本貴幸は06-07シーズンに18歳でカターニアへ加入した。いまは珍しくないが、当時としては斬新な10代での移籍だった。そして、同シーズンにセリエAでの日本人最年少得点を記録し、ローンから完全移籍を果たした。その後、ノヴァーラへの移籍などを経て、12-13シーズンまでセリエAでプレイ。度重なるケガに泣かされた部分もあったが、第一線で戦い続けた。
ザッと振り返っただけでも、2000年代になって本当に多くの選手が海外移籍をしている。無論、実際にはここに名前をあげた以上に多くの選手が海を渡っている。しかし、ひとつ言えることがある。それは、所属しているチームの多くが優勝争いするようなビッグクラブではなく、中位、下位のチームだということ。中田英寿や中村俊輔のように、リーグ優勝を経験する選手がなかなかいなかった。
そうしたなか、07-08シーズンの途中にヴォルフスブルクに加入した長谷部誠は、翌年に中心選手としてマイスターシャーレ(優勝皿)を掲げている。新時代の幕開けで、その後は各国リーグの強豪チームで日本人選手がプレイするようになっていった。
文/飯塚 健司
※電子マガジンtheWORLD245号、5月15日配信の記事より転載
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