海を渡ったサムライフットボーラーは数多い。リーグ優勝の一員となった選手がいれば、チャンピオンズリーグで欧州最高峰の攻防を演じた選手もいる。
彼らの足跡は日本サッカーの歴史であり、今はまだ日本人にとって未踏の高みに立つ選手が、これから出てくるかもしれない。
だからといって、先達の足跡が消えることはない。日本と世界の距離が今よりもっと遠かったからこそ、先駆者の努力と汗はむしろ輝きを増すのだ。
サムライフットボーラーがヨーロッパで戦う道を切り開いたのは、中田英寿に他ならない。1998年のフランスW杯直後の7月、ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に所属していた21歳はイタリア・セリエAのペルージャに移籍する。
Jリーグは開幕5年目のシーズンで、日本はW杯に初出場したばかりである。世界のサッカー市場では発展途上の存在だったが、アンダーカテゴリーでは結果を残していた。
自国開催した93年のU-17世界選手権(現・U-17W杯)でベスト8入りし、95年には8大会ぶりに出場したワールドユース(現・U―20W杯)で8強に食い込む。さらに96年のアトランタ五輪では、ブラジルを破るアップセットを演じた。
Jリーグ開幕を追い風に世界で結果を残していく若き日本代表に、中田は漏れなく選出されてきた。彼にとって国際舞台で戦うことは、かねてから特別な時間ではなかったのである。
そうは言っても、90年代後半のセリエAである。世界最高峰と呼ばれていたリーグである。どこまで存在感を放てるのかには、楽観論と悲観論が交錯した。
結果的に彼は、たった1試合で答えを出した。セリエAデビューとなったユヴェントスとの開幕戦で、2ゴールをマークしたのである。
ベルマーレと日本代表での中田は、トップ下を定位置にしていた。相手守備陣を切り裂く“キラーパス”を代名詞としていたが、ペルージャは残留を目標とする地方クラブだ。相手を押し込む試合よりも、押し込まれる試合が多い。司令塔の頭上をボールが行き交う展開も予想される。だとすれば、アシストではなくゴールにこだわることが、クラブと自身の利益にかなう。数字を求められる外国人助っ人の立場に照らしても、点を取ることにどん欲になるべきだったのだ。
ベルマーレではプロ1年目の8得点がキャリアハイだったが、ペルージャ移籍1年目に10ゴールをマークした。これにより彼は、ビッグクラブ入りの切符をつかむ。セリエA、2シーズン目の99―00シーズン途中に、古豪ローマへステップアップするのだ。
当時のセリエAでは、中田はEU圏外の外国籍選手の扱いだった。このため、クラブ生え抜きのフランチェスコ・トッティの控えという立場が基本となり、翌00-01シーズンにはアルゼンチン人FWのガブリエル・バティストゥータが加入してきたことなどもあり、EU圏外枠の争いがさらに激化する。先発出場する機会は、決して多くなかった。
だが、中田自身は確実にスケールアップしていた。
01年3月の国際Aマッチで、世界規格のプレイヤーであることを証明する。サン・ドニで行われたフランス対日本戦だ。
パリ近郊は午前中から雨に打たれ、ピッチは水分をたっぷりと含んでいた。深くて滑りやすい芝生に日本人選手が悪戦苦闘するなかで、中田だけはいつも通りにプレイしていた。フィジカルコンタクトに負けることなく、独力で局面を打開して相手ゴールへ迫った。
フランスの有力スポーツ紙『L’EQUIPE』は、翌日の紙面で中田に採点「7」をつけた。平均の「6」をこえる評価を受けた日本人選手は、彼ひとりだけである。98年のW杯と2000年のEUROを制した当時の世界王者にも、見劣りするところはなかった。
5月にはローマで大きな仕事をやってのける。
ファビオ・カペッロ率いるローマは、82-83シーズン以来のセリエA優勝へ突き進んでいた。しかし、2位ユヴェントスとの直接対決となった5月6日のゲームは、0対2のスコアで後半に突入する。
ここで、トッティと交代した中田が右足ミドルを叩き込むのだ。後半終了間際には中田のシュートを相手GKが弾き、詰めていたビンチェンツォ・モンテッラがプッシュする。2対2に持ち込んだローマはユヴェントスとの勝点6差をキープし、最終的にスクデットを獲得することになる。