名良橋晃のJリーグ回顧録(前編)「この環境でJ参戦は失礼だろうという雰囲気があった」

1993年にスタートしたJリーグ。今や野球と並ぶプロスポーツリーグへと成長を遂げたJリーグも、草創期には試行錯誤の連続。ピッチで躍動した選手たちも、それぞれの思いを抱えながら戦っていた。そんな中で、Jリーグ2年目からベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)の選手としてプロデビューを果たした名良橋晃氏は、どんな気持ちで戦っていたのだろうか。当時を思い起こしながらお話をうかがった。

社会人としてスタートし、2年目にプロ契約を結ぶ

ベルマーレ平塚や鹿島アントラーズで活躍し、日本初のW杯出場も経験した名良橋晃氏 photo/Kyoji Imai

──1990年に高卒でフジタ(現在の湘南ベルマーレ)に加入していますが、後に日本サッカーがプロ化されることをどれぐらい意識されていたのですか?



名良橋 サッカー界全体にプロ化の流れがあるのは把握していましたが、ボクのなかではざっくりとしたイメージしかありませんでした。ホントにJリーグというものが設立されるのか? ちょっと曖昧に考えていました。それよりも、社会人としての第一歩だという気持ちが強く、“プロ”どころではなかったです。まずは、社会人生活をどうスタートさせるかしか考えていませんでした。

──社会人選手からプロサッカー選手へ。意識はどう変わっていきましたか?



名良橋 入社1年目の午前中は普通に出社して、働いていました。練習は午後からでしたね。プロ化に向けてチームから説明があったと思うのですが、あまり記憶がありません。2年目にニカノールさんがヘッドコーチとして入ってきて、チームにいろいろと変化が出てきました。世代交代などがあり、プロ化に向けて会社が少しずつ動き出しているなと感じるようになっていきました。報道でもJリーグへ参入するチームの候補としてフジタの名前が出ていたので、選手としては結果を出して、あとは行政や会社の判断を信じるしかなかったです。

──2年目はプロ契約だったのですか?



名良橋 そうです。一応、プロ契約になっていました。自分としてはそこがプロとしてのスタートです。ただ、フジタはまだJSL2部だったので、1部のチームとはあまり対戦したことがありませんでした。正直、そういうチームがJリーグに参戦して結果を出せるのかという不安がありました。一方で、チームがプロ化を目指すなか、ボクはユース代表やオリンピック代表に入っていて、もっとステップアップしたいという気持ちがありました。そんなときに、ちょうどクラブから「プロとしてやってみるか?」という声をかけていただきました。中途半端でいるよりも、思い切ってスタートを切ったほうがいい。そう考えて、プロとしてやっていこうと決めました。

──悩みましたか? 相談した人はいましたか?



名良橋 あまり悩まなかったし、相談もしませんでした。初年度から試合に出させてもらっていたので、ある程度の自信があったんです。プロとしてやっていける。そういう自信が芽生えていたので、自分で答えを出してスタートしました。

──結果的にフジタは“オリジナル10”に選ばれませんでしたが、選手たちはどう受け止めていたのでしょうか?



名良橋 正直なところ、あまり期待はしていませんでした。候補ではありましたが、2部だったし、クラブハウスや練習グラウンドといった環境面、待遇面を考えると、ちょっと難しいと思っていました。逆に、この環境で参戦するのは失礼だろうという雰囲気もあったので、そんなに期待していなかったです。だから、外れた瞬間すぐに、次の年に参戦するぞと目標を切り換えていました。

1993年JFL1部に優勝し、Jリーグ昇格を勝ち取る

1993年、Jリーグ開幕。海外からのスター選手も話題を呼び、日本はサッカーという新たな熱狂に包まれる photo/Getty Images

──1993年に開幕したリーグはどういう視点でみていましたか?



名良橋 単純に、やっぱり羨ましかったです。ホントのところ、開幕戦があれだけ盛り上がるとは想像していませんでした。もう少しお客さんがまばらなのかと予想していたら……。あんな雰囲気になるとは夢にも思っていませんでした。いい意味で裏切られました。

──すでにJリーグで活躍する同年代の選手はいましたか?



名良橋 同い年で知り合いだった選手は、ほとんど大学に進学していました。なので、初年度のJリーグに同年代の選手がいた記憶はないです。それもあって、テレビに出ていたヴェルディのラモスさん、カズさんが羨ましかったですね。

──1993年のナビスコ杯でそのヴェルディと対戦していますね?



名良橋 覚えています。たしか日本代表の選手はいませんでしたが、それでも2-5で負けました。だけど、大きな差はないと感じて、十分にやれるという手応えを得られた試合でした。あのときのナビスコ杯では、Jリーグのチームと全6試合を戦って2勝しています。悲観する必要がない結果で、チームにとってもボクにとってもプラスになった大会でした。

──同じ1993年のJFL1部で優勝し、Jリーグ昇格を勝ち取っています。



名良橋 フジタ、日立、ヤマハによる三つ巴の優勝争いで、そのなかから2チームがJリーグに昇格できるという状況でした。そうしたなか、改修工事をしていた平塚競技場の完成が遅れるという報道が出ました。一方で、日立は「うちはしっかり作ります」というアナウンスをしていました。なんとなく、ヤマハと日立が参戦するという雰囲気になっていたので、それで火がつきました。「じゃあもう、優勝するしかない」と。「なにも言わせない感じで昇格を勝ち取ろう」という雰囲気が、チーム全体にありました。

──優勝&昇格を決めた試合は覚えていますか?



名良橋 もちろん、覚えています。最終戦がヤマハとのアウェイゲームで、得失点差で圧倒的に有利だったので、何十点差で負けなければ大丈夫という状況でした。だけど、当面のライバルとの一戦だったので、「勝って平塚に帰ろう」とみんなで言っていました。試合はボクのアシストからベッチーニョが決めて1-0で勝ちました。ホッとしたし、うれしかった。選手としてやることはやったので、あとは昇格が伝えられる電話待ちでした。

──正式に昇格が決定するのは、後日Jリーグから連絡を受けてからでしたね。



名良橋 いまだったらクラブハウスの会議室でちゃんと連絡を待つと思いますが、あのときは選手みんなが筋トレルームに集まって待機していました。そこが社長のいた場所に一番近くて、みんなで報告を待ち受けていました。いざJリーグ昇格が正式に決定したときは、いよいよスタートだと思いましたね。

──その夜はどんな感じで過ごしたのですか?



名良橋 いわゆる飲み会はなかったですが、みんなで祝杯はあげましたね。ただ、かなり待たされてすでに夜遅くになっていました。ボクは早く家に帰りたかったので、乾杯だけしてすぐに帰りました。

──チームとして、個人として、Jリーグでも戦えるという自信はありましたか?



名良橋 1993年は天皇杯でもベスト4まで勝ち進みました。若いチームなので、自信があって勢いがありました。ボク自身も右サイドバックのポジションで1992年のJFL1部でアシスト王になっていました。Jリーグでもできるだろうという期待しかなかったです。若いチームだからこそ「できる」という自信に満ち溢れていました。その自信をへし折られたのが、1994年Jリーグ開幕戦のヴェルディ戦でした。


取材・文/飯塚健司

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