1993年にスタートしたJリーグ。今や野球と並ぶプロスポーツリーグへと成長を遂げたJリーグも、草創期には試行錯誤の連続。ピッチで躍動した選手たちも、それぞれの思いを抱えながら戦っていた。Jリーグ2年目から、ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)の選手としてプロデビューを果たした名良橋晃氏。待望の開幕戦では、今まで持っていた自信を打ち砕かれたという。
開幕戦で持っていた自信をへし折られた
初年度年間優勝のヴェルディ川崎にはレベルの違いを見せつけられた photo/Getty images
──当時のベルマーレ平塚は若い選手が多く、勢いもありました。昇格初年度の1994年Jリーグには、どんな印象が残っていますか?
名良橋 自信を持って臨みましたが、開幕のヴェルディ戦でいきなりへし折られました。自信満々で国立競技場のピッチに立ちましたが、前半で0-4にされました。前年にナビスコ杯で戦ったときは日本代表の選手たちが不在で、そんなに大きな差は感じなかったんです。それが、このときのヴェルディはベストメンバーで、ちょっと違うなと感じました。内心は前半で帰りたかったです……。Jリーグ初年度のチャンピオンは、やっぱり総合力が圧倒的に違いました。それまで持っていた自信を完全にへし折られました。
──サントリーシリーズは11位(全12チーム)でしたが、開幕戦に敗れたままの流れで戦ってしまったのでしょうか?
名良橋 第2節のマリノス戦で初勝利をあげましたが、その後にまた敗戦が続きました。そのときに、右サイドバックとして守備に重きを置いてプレイしないといけないのかなと考えました。実際、連敗を止めたグランパス戦では同サイドにエリベウトンというブラジル人選手がいたので、意識して守備的にプレイしました。そしたら、週明けの練習で古前田監督に声をかけられ、「お前ちょっと守備的だったんじゃないか?」とやんわりと指摘されました。あのときは、「コマさんみているな。監督ってやっぱりすごいな」と感じました。攻撃的なチームだったので、あくまでも攻撃的にいくべきだったんです。その後はまた攻撃的にプレイしましたが、サントリーシリーズでは裏目に出てしまいました。
──たとえ結果が出なくても、攻撃的に戦うことは変えなかったのですね?
名良橋 そうです。コンセプトは貫こうと。失点しても、取り返そうと話していました。結果、サントリーシリーズは失点が多く、それが順位に繋がってしまいました。ニコスシリーズではポジションにひとつ変化がありました。テル(岩本輝雄)を左サイドバックから中盤に上げて、後ろにバランスを取ってくれる公文(裕明)さんを入れました。この変更がうまくいって、ニコスシリーズは大躍進(2位)しました。
──Jリーグに昇格したことで、環境や待遇に変化はありましたか?
名良橋 もう、すべて変わりましたね。クラブハウスが新しくなり、練習場も変わりました。待遇についても、勝利給など金銭面で変化がありました。ホントにすべてがガラッと変わりました。まわりからの目線も変わったので、Jリーグに昇格するとこんなにも変わるんだと改めて感じました。
──ご自身のなかでなにか変化したことはありましたか?
名良橋 目立ちたかったので、金髪にしましたね。あのころはヴェルディの若手がみんな金髪にしていたので、ちょっと真似してみました。実に単純な理由で髪を染めましたね。あとは、やっぱり車や洋服です。普段からみられている意識があったので、服装はしっかり気をつけないといけないと考えていました。また、食事など栄養面により気を使うようにもなりました。カズさんのインタビューを読んだり、本を読んだりして改善したこともあります。プロとして24時間を考え、摂生した生活を送る。そういった部分はより一層意識するようになりました。
──そのころに「現役を長く続けよう」という考えはありましたか?
名良橋 当時はぜんぜん考えていなかったです。何歳までというプランはなく、1日1日が勝負でした。Jリーグに昇格し、日本代表も明確にみえていました。まずはベルマーレで活躍して、日本代表に入りたい。そういう思いで日々プレイしていました。
プロとしてのスタートがベルマーレでホントに良かった
若手として頭角を現しはじめた中田英寿。淡々とプレイしている印象だった photo/Getty Images
──日本代表に初招集されたのは1994年でした。どんな思い出が残っていますか?
名良橋 ファルカンが監督になり、ベルマーレからテルとか名塚(善寛)さんが日本代表に呼ばれるなか、ボクには声がかかりませんでした。悔しくて、より強く日本代表に入りたいと思っていました。自分のなかで相当に悔しかったので、日本代表についてテルや名塚さんに話を聞くこともなかったです。あえて、聞かないようにしていました。誰もが納得する客観的な結果を残して、日本代表に入ろうと考えていました。
──アジア大会を戦う日本代表に招集され、大会直前のオーストラリア代表戦でデビューを飾っていますね?
名良橋 あのときにボクが呼ばれたのは、ぎりぎりのところだったと思います。結局、アジア大会には出場できませんでした。そこでもまた、悔しさが募りましたね。一方で、いろいろな選手と寝食をともにすることで、自信になったし、参考にもなりました。個人的には、あのチームはもったいなかったなと思っています。
──ファルカン監督時代の日本代表について、もう少しみてみたかったという意見はいまも聞きますし、個人的に私もそう思います。
名良橋 あまり声を大にして言えないですが、もうちょっとファルカンでもよかったのではないか。もうちょっとみてみたかった……。ボク自身、すごくそう思いましたね。
──その後、ベルマーレで同年の天皇杯に優勝していますが、どのような印象が残っていますか?
名良橋 サントリーシリーズから一転して、ニコスシリーズは優勝争いに加わりながら、ぎりぎりのところで2位に終わっていました。その悔しさが天皇杯での優勝に繋がりました。順当にいけば準々決勝でアントラーズと対戦する組合せだったのですが、アントラーズが1回戦で東京ガス(現在のFC東京)に敗れました。そのときに、これはちょっと、もしかしたら、となりました。実際、準々決勝では東京ガスと対戦し、2-1で勝利しました。そのままの勢いで優勝まで駆け抜けた感じでした。
──1995年は中田英寿が加入していますが、チームとしてはシーズン途中に監督交代がありました。苦戦した1年だったのでしょうか?
名良橋 サントリーシリーズの途中までは、優勝争いをしていました。その後、日本代表の欧州遠征(アンブロカップ)があって、帰国してから結果が出なくなっていきました。若いチームだったのでズルズルといってしまい、古前田監督とニカノール(ヘッドコーチ)が解任になりました。サントリーシリーズ、ニコスシリーズともに結果がともなわなかった1年で、若いチームの勢いが逆に出てしまい、立て直すことができませんでした。
──高卒ルーキーだった中田英寿はどんな感じでしたか?
名良橋 淡々とプレイしていましたね。マイペースで、普通にやっていました。すでにU-17W杯も経験していて、これはすごい選手になるなと思っていましたが、まさかあそこまでいくとは……。ヒデは逆算してちゃんと考えていましたね。イタリア語を勉強していたし、イタリアに留学もしていた。自分でしっかりと考えて取り組んでいました。まだ1年目でチームに絶対的な司令塔だったベッチーニョがいたので、自分から言葉を発することはあまりありませんでした。だけど、スーとチームのなかに入ってきて、すぐに溶け込んでホントに淡々とプレイしていました。若いチームだったことが、ベルマーレにとってもヒデにとってもよかったのだと思います。
──ベルマーレ時代を振り返って、どのような印象が残っていますか?
名良橋 右サイドバックとしての原点を作ってくれたチームで、攻撃的な自分の良さを出してくれたチームでもあります。ヒデもそうだと思いますが、プロとしてのスタートがベルマーレでホントによかったです。ニカノールと出会っていなかったら、右サイドバックへのポジションチェンジもありませんでした。ベルマーレというチームが持っていた雰囲気、攻撃的なスタイルが、自分のプレイにもプラスになったのは間違いありません。
取材・文/飯塚健司